2019年受難週
祈祷会メッセージ
ルカ23章32-38節
十字架の七言の最初は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」でした。この祈りはイエス様の生涯を貫いている、私たちへの思いが表れた言葉です。ルカによる福音書から、わたしたちを赦し、罪から救うために来られたイエス様の思いをみます。
1.悪魔の試み(4:1-13)
公生涯の初めに、イエス様は荒野で悪魔の試みにあわれました。三つの試みをすべて イエス様は退け、「悪魔は、一時イエスを離れ」ましたが、その後も試みは続きました。
悪魔はイエス様に「あなたが神の子であるなら」石をパンに変えよ、宮の頂上から飛び降りてみよと試みます。イエス様は十字架上でも「自分を救え、十字架からおりてこい」とあざ笑われました。しかしイエス様は、ご自分を生かすため、救うために一切神の子としての力をあらわされません。
悪魔はまたイエス様に、自分を拝むなら世界のすべての国々の権威と栄華を与えると試みます。しかしイエス様は、地上の権力や財宝の輝きではなく、その陰で悩み苦しんでいる人たちを見ておられます。光が当っているようでも、その心は暗く、悩みおびえている人たちに目をとめておられます。イエス様は、すべての人が「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、」(マタイ9:36)、「彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と深くあわれみ、祈ってくださっていました。
2.神のあわれみだけを求める祈り(18:9-14)
イエス様はこれまで、目を天に向けて「父よ」と祈ってこられました(ヨハネ11:41、17:1)。しかしゲッセマネの園では、目前に迫る苦しみのゆえに、ひれ伏して祈られました。十字架上でも、激しい痛みの中で顔を上げることもできず「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。
イエス様はたとえで、パリサイ人と取税人の対照的な祈りを話されました。パリサイ人は神殿に入り、天を仰ぎながら堂々と、自分の正しさとその行いを言い表します。しかし取税人は「遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら」「神様、罪人のわたしをおゆるしください」とだけ祈りました。神に義とされたのは、この取税人であると、主イエスははっきり宣言されました。
イエス様は、自分の罪を知り、罪と死の力に対してなんの力も自分にはないことを認めて、ただ主のあわれみにすがって「おゆるしください」と祈ることしかできない者に寄り添い、「父よ、彼らをおゆるしください」ととりなしてくださっています。
このイエス様のとりなしは、両手両足に釘を打ち、また嘲って頬を打ったりつばをはきかけた兵士たち、不当な訴えをしたユダヤ人たち、見捨てて逃げ去った弟子たち、裏切ったユダ、そして私たちすべてのひとのための祈りです。
「彼(キリスト)は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって(通して:新共同訳)神に来る人々を、いつも(完全に:新改訳、新共同訳)救うことができるのである。」(ヘブル7:25)。
3.先回りの祈り(22:31-34)
これまで主イエスは「罪人を招き」、「あなたの罪はゆるされた」と約束してこられました。また「七たびを七十倍するまでゆるしなさい」と命じられました。「彼らをおゆるください」との祈りは、その集大成であり、根拠です。罪を裁くお方が、ゆるしを宣言し、罪人の受ける罰を代って受けてくださいました。
弟子たちとの最後の夜、イエス様はペテロに「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と告げられます。サタンのふるいにかけられて、ペテロは落ちてしまうことを主は知っておられました。これは誰も同じで、神様の前に義人はいません。しかし、「下には永遠の腕がある」(申命記3:27)のです。
主の予告どおり、ペテロはイエス様との関わりを三度否定します。そして自分の弱さに打ちのめされ、主が葬られた後は復活を予告する言葉も失っていました。しかしよみがえられた主は、ペテロの前に立ち、「安かれ」と言われます。「あなたが立ち直ったときには」との主の言葉は、可能性ではなく確信ある預言でした。
私たちが救われたのも、主が先に赦してくださり、祈ってくださっているからです。そして互いに励まし合うように主にある交わりが与えられています。後手の祈りだけでなく、主に信頼して先手の祈りをささげさせていただきましょう。