師をば中心として

先日、牧師の集まりで

「師をば中心として」という言葉が問われた

 

聖歌340番・新聖歌423番

「村の小さき教会」2節の歌詞にある言葉

 

「主をば中心として」が正しいのではないかと

 

教会の記録には「師をば中心と」してきたものがある

 

K教会

終戦後Y師はI教団に属せられたが、教会は種々協議の結果、Y牧師とのお交わりのあったM師などの勧めにより、当時奉仕のため祈りつつあったSを牧師として新に出発することになった。」

S教会

「A師は、その晩年に、S教会の牧師たちやTの牧師たちに対して、次々と疑 念を抱き、特に、お膝元のS教会では、牧師の辞任就任が何度も繰り返された。その様な流れの中で、S教会のN教団加入問題が生じたが、S教会の信徒たちは、T師以外に、S教会の牧師はあり得ないと、T師に従っていくこと を表明。○○年、A師は、S教会の代表役員を辞任。」

 

教会発足の経緯や、神学的立場の検討などではなく、

「この先生」を中心にということが多々あった(ある)ことと思われる。

 

しかし一方、地方教会では「師をば中心と」する必要もおぼえる

人数が集まり、役員の教育や継承がなされる都会の教会では

「主を中心とする」教会をしっかり建て上げていただき

ひとり牧師がいるだけで教会の灯がともされ続けていく

地方の実態/要請も考慮していただければと思う。

 

「教会の本質的なあり方」と「小さな町や村にも教会があることの意義」と

どちらも大切に考えていくべきこと