スローガンに「気をつけろ」 2 監督性を加味した長老制

このあいまいとした表現をかかげてながくやってきたわけですが

ある改革派教会の文章を試みに引用してみます。


『先週、東関東の長老さんと懇談していた時、次のような話を紹介されました。その教会では高齢化対策の一つとして、エレベーターを導入することを決めたのですが、小会が出した原案に対して、会員の中の会衆制教会からの加入者の何人かが、思いつきの修正意見を出してきて、会員総会の運営が困難だったということでした。
 私たちの教会制度は長老制です。これはカトリック教会の監督制が採用する上意下達方式や、会衆制教会の、会員総会が最高決議機関というものでもありません。長老政治では会員総会ではなく、小会が最高決議機関です。誰に洗礼を授けるかとか、ある人を別帳会員籍に移す、などという問題は会員総会には諮りません。これらは小会の専任事項です。小会は教会運営について、会員の意見を汲み上げる努力をしなければなりませんが、一定の方向性を決め、会員総会を導く責任があります。
 この点が、会衆制の教会から加入してきた人たちにとっては慣れない点なのでしょう。教会で問題が出てくるのは、小会の権威が理解されないことが原因である場合が多いのです。教会の通常の活動においては、小会の権威が重んじられなければなりません。会員が自分の権能を発揮するのは長老を選挙する時なのです。』

 

この文章を読んで、今の教団では、総会に修正案が出ても何の違和感もおぼえない人の方が多いのではないでしょうか。

しかし、「監督性を加味した」長老制ならば、もっと委員会の指導や発案に重みがあるはずです。

創立当初、〝霊的巨人〟たちが指導運営していた頃は、「委員会の決定は神の声」として、指導する側もされる側も責任と重みを感じていたのではないでしょうか。

ただそこには、巨人≒個人となりがちな面があったのが「監督性を加味した」という微妙な表現になったことでしょう

 

どうも上の文章から考えると、「長老制」とはとてもいえず、

「監督制」に「会衆制」がまじりこんだもの のようにも思えます